公開日: 2023年10月31日
筆者: 松田千恵子氏 東京都立大学大学院 経営学研究科 教授
今年8月末に「市場区分の見直しに関するフォローアップ会議第11回(「フォローアップ会議」)」が行われ、「資本コストや株価を意識した経営の実現に向けた対応」(「東証対応要請」)に関する企業の対応状況等の議論がなされました。今回はこの内容を少し考えてみたいと思います。
ガバナンスは新しい段階へ
東証対応要請については総じて好評と言えそうです。フォローアップ会議の説明資料にも「実際に、要請後、企業が対話に積極的になった、対話の中で資本収益性や事業ポートフォリオに関する議論が増えた、企業からの助言依頼が増えたなど、企業の前向きな変化を感じるという声も、国内外の投資家から多く寄せられている」と言及されています。
一方、東証対応要請が「PBR1倍未満の企業への要請」と誤解されてしまい、「PBRが1倍を超えていれば何もしなくて大丈夫」といった誤解を生んでいることも指摘されました。実際、東証対応要請を踏まえたコーポレートガバナンス報告書の開示を行った企業は、PBR1倍未満かつ時価総額1,000億円以上のプライム上場企業では45%に達する一方、PBRが1倍以上になると26%に落ちてしまいます。時価総額1,000億円以下の場合にはわずか15%に過ぎません。この傾向はROE8%未満か以上かというケースでも同様です。企業はかなり杓子定規に「安全地帯」を決めてしまっているようです。
資本コストを見る必要性
では、本当にPBRが1倍を超えてさえいれば、あるいはROEが8%を超えてさえいれば企業は安泰なのでしょうか。残念ながらそんなことはありません。こうしたボックスティッキング的な思考は誤解の元です。フォローアップ会議における指摘でも「ファイナンスや資本コストに対する意識や理解はまだ弱い」とされていますが、ROE向上とともに資本コスト低減に努めることも必要です。今年7月より算出開始された「JPXプライム150指数(JPX150)」では、PBRとともにエクイティスプレッド(ES)が採用されました。言わずと知れた、ROEと株主資本コストの差を見たものです。ROEだけを見ていれば済むわけではなく、株主資本コストに対するROEを見る必要があるということです。ESこそが、株式投資家にとって本質的に重要な指標となります。
一方で、「日本の経営者はROEに着目するが、ROEはレバレッジを上げることで操作できてしまうので、ROICをより重視していくべき」という指摘もあります。事業ポートフォリオマネジメントを考えていく上では確かにROICの方が重要指標でしょう。そのROICにしても、導入企業は増えていますが、これも単にROICが分かっただけでは話になりません。それが事業別に把握できていて、かつ事業リスクを反映した資本コスト(この場合は加重平均資本コスト、WACC)と比べてどうなのかということが明確になっていることが必要です。いわゆるROIC-WACCスプレッド、あるいはEVAスプレッドと呼ばれるものです。
ROEやROICなど資本効率性に関する指標を導入して終わりではなく、資本コストと引き比べたうえで株主価値や企業価値の向上度合いを把握し、事業ポートフォリオマネジメントやコングロマリットディスカウントの判断等に役立てなければ意味はありません。
将来ストーリーを描けるか
しかし、こうした指標の設定やそれらによるスクリーニング、ひいては経営管理の充実は必要なことではありますが、それらが機能する前提が成り立っていないことも多くあります。典型的なものが、将来ストーリーの欠落もしくは吟味不足です。
企業全体であっても事業別であっても、それぞれの将来像を明確に描き、持続可能な成長ストーリーとして論理的かつ魅力的に打ち出すことは常に求められます。こうした成長ストーリーを基に企業と投資家の対話が進むのが本来のありかたでしょう。フォローアップ会議では未だ課題とされつつも、企業と投資家の間では、こうした認識はだいぶ進んできたように思いますが、残念ながら企業内における事業ポートフォリオマネジメントでは驚くほど忘れられがちです。事業部門はなかなか外部の評価に耐えるような成長ストーリーが描けず、投資家的な役割を果たすはずの本社は、市場や競合の理解について意味のある投げかけをなかなかできていません。その結果、競合他社より立ち遅れているのにおとがめなしだったり、成長事業なのに投資が全く回って来なかったりすることも多く目にします。また、そもそも自社の事業ポートフォリオがどうあるべきかという全社戦略の枠組みも不足していることが多いように見えます。もしかすると、数値的なスクリーニングの後に何をすべきかという点が少し欠けているのかもしれません。
ROE8%超え企業の不思議な現象
このことは、フォローアップ会議の資料からも垣間見えます。東証説明資料では、PBR1倍割れの企業が、改善のためにどのような取組をしているかをROE8%未満、以上別に分けてまとめているのですが、会議メンバーも議事録において指摘している通り、ちょっと不思議な結果となっています。
本来、ROEが高い企業というのは次の成長投資に邁進するはずなので、成長投資は多く、株主還元は少なくなる傾向にあるはずです。しかし、フォローアップ会議がまとめた資料では、この関係が逆になっています。また、財務的に厳しく余裕のないはずのPBRもROEも冴えない企業の方が、人的投資やサステナビリティ対応に一生懸命になっているという結果も読み取れます。さらに、半数近く、あるいはそれを超える数の企業が、マネジメントの中核課題とも言える事業ポートフォリオの見直しやガバナンス強化に着手できていません。企業価値向上のためにせっかく頑張っているのに、そのポイントがずれていたりはしないでしょうか。少々不安になる結果ではあります。
筆者略歴
松田千恵子氏 東京都立大学大学院 経営学研究科 教授
金融機関、格付アナリスト、国内外戦略コンサルティングファームパートナーを経て現職。公的機関の経営委員、上場企業の社外取締役を務める。筑波大学院企業研究科博士後期課程修了。博士(経営学)。近刊に「サステナブル経営とコーポレートガバナンスの進化」(日経BP社)、「全社戦略ーグループ経営の理論と実践」(ダイヤモンド社)。